建物というモノ

kasta22007-08-10



一時期ブームになった感のある白州次郎・正子さんについては、実はあまりよく知らないのだが、ダンディだとか目利きだとかいう風評のみを聞くと、なんとなく嫌味な気もしたりしていた。彼らの住まいである武相荘へ行ってみようと思いたったのは、あるときここの屋根の萱を葺いたという職人にお会いして、屋根の葺き方から日焼け防止クリームの選び方までいろいろと裏話を聞かせてもらったからである。

白州さんたちは戦前に旧鶴川村の典型的な養蚕農家を買って、そこが武蔵野と相模の境目であったことから武相荘と名付けて自分たちの住まいとした。もちろん無愛想にひっかけたネーミングなのだが、家のたたずまいは決してそんなことはなく、立派な門をくぐるとミンミンゼミの声と大木や竹林に賑やかに迎えられた。

ここへ来たら、住まいとモノの関係を見てみようと思っていた。白州さんたちは目利きというくらいだから、多くの焼き物や絵や本に囲まれて暮らしている。それらが建物としての住まいのなかでどのように見えるのか。モノが主役で建物は引き立て役なのか、あるいは建物(建物も建モノというモノだ)とモノがぶつかりあっているのか、調和しているのか。モノひとつ見えない真っ白なインテリアを見慣れた身には、建物とモノが調和している状態に惹かれるところもあり、一方でそういう状態をいざ設計するとなると非常に難しいということも感じているのである。

実際は、武相荘の屋内には床一面にモノが展示されていて、白州さんたちが生活していたときの様子は分からなかった。ただ、農家らしい骨太の柱梁がどんなモノがきても、がっしりと受けとめてしまうような存在感があるように思えた。

むしろ印象に残ったのは、家の外側である。家と角度を振って敷かれた石畳、ポツポツと蟻の巣穴が開いた地面、金魚の泳ぐ鉢、外壁に差し掛けられた竹格子、などなど、あまりモノの種類は多くはないけれど整えられた
庭がしっかりとした世界をここにつくっているような気がした。その世界が、建モノとそのなかのモノたちを雑多な外の世界から守っているのではないか。

例えば、ロンドン市中のコレクションに溢れたサー・ジョン・ソーン邸のように、建物がモノを守る砦の役割を果たしているのではなく、建モノがモノの側にある、あるいは建物がモノの一部としてある、それらを庭が守っている、そんなたたずまいがここにはあるような気がした。その意味では、武相荘の建築は、声高な守衛ではなく無愛想な住人なのである。