見上げる人


ちょっとした興味から、いまは環境問題にはまっているという小沢健二のことを検索してみたら、昔の小沢健二大槻ケンヂの対談が出てきて、男が曲をつくるのは大変なんだという話になり、CHARA森高千里の「だってオンナノコなんだもん」という姿勢には敵わないと言っていた。結局、男には常に自分を俯瞰の視線で見ているもう一人の自分がいて、その高みから組み立てた周到な構想や計算で対抗するのだということで二人が意気投合していた。


最近読んだ本で、黒田硫黄の「わたしのせんせい」という作品では、これと同じようなことが違った形で表現されている。ヒロインは田舎町の女子高生で、担任の先生と密かにつきあっているのだが、実はその先生がゴミ処分場のダイオキシンを集めにくる宇宙人の手先という設定で、そのことを打ち明けて、もうつきあえないという先生にヒロインが叫ぶ。
 「そうやってずっと上から見ていたいんでしょ、神様でいたいんでしょ」
ビジュアル的には、ヒロインが坂道をものともせずかっ飛ばす自転車と、頭上に飛来する宇宙船の対比が印象的だ。


黒川創の「かもめの日」という小説では、事態はもう少し複雑になっている。登場人物のひとり(男)はソ連の女性宇宙飛行士テレシコワがはるか高みの宇宙から発する声をラジオで聴くという幼少期の体験を持ち、一方では、見上げるような高層ビルのFMラジオ局のスタジオで働く女性アナウンサーも登場する。ここ(現代の東京)では、黒田硫黄が明確に対比して見せたコントラストが感知しにくく、視線や声は互いに交錯し混信して、単純な上下の構造ではなくなっているのだということだろうか。


「ぼくらが旅に出る理由」なんていう曲を残した小沢健二は俯瞰するのをやめたくて旅に出たのではないかという気もしてきたけれど、そこのところはよく分からない。