越後妻有アートトリエンナーレ2006レポート

 すっかり更新が滞ってしまった。その間に越後妻有の芸術祭の作品をなんとか完成させ、お盆休みに他の作家の方々の作品を見て回ったりしていたら、早くも会期も終わりに近い。まだ見ていない作品もいくつかあるが、いまの時点での個人的なまとめを書いてみよう。自分の作品については稿を改めることにして、ひとまず「これは良かった」と思った作品の紹介を兼ねたレポートです。


 「上品な作品が増えた」というのが芸術祭にずっと関わってこられた、ある地元の役所の方の感想だった。実際に自分で作品を見て回ってみると、確かにそんな気もする。「明日に架ける橋のように」(カアリナ・カイコネン)は川に渡した全長150mのワイヤーに地元で集められた服を虹のように架けた作品で、文句なしにきれいだった。
 一方で、3回目となる今回の芸術祭の作品に多い「地元の方々にもてなされている」という感覚をこの作品からも少し感じる。要は、観客以前に作家がお客さんとしてもてなされていると言ったらいいだろうか。3回目となると地元の方々にとっても慣れや親しみがあり、言葉の通じないマレビトに対してもきちんと応対し、制作中や設置後のサポートまで率先してやっていただけるようなところがある。妻有を訪れた作家が「風景」とか「古民具」とかに驚いているさまを暖かく見守ってもらっている感じで、それが悪い方向に作用してしまうと作品にある種の既視感をもたらすのではないだろうか。地元の方々が自らの風景や生活の価値に改めて目を向け、訪れる人々とのコミュニケーションにより積極的になったという意味では、芸術祭が成功しているということかもしれないのだが。
 里山だけでなく、十日町市街地の「幸のウチ」(杉浦久子+杉浦友哉)もきれいな作品だ。道路から見下ろしたときと、なかに入って見上げたときでまったく印象が違う。
 刺繍という方法で旅の驚きを表現した「ミラノ-東京:往復便」(アニラ・ルビク)も可愛らしい作品。
 きれいという意味では、「こころの花-あの頃へ」(菊池歩)が一番かもしれない。3万本の青いビーズの花が広がっているさまは、予想以上のものだった。

 一方で、この作品は数もさることながら森の中というロケーションも含めて、作家が妻有という現場と格闘していることが伝わってきて、きれいだけではない迫力や作品を実現するまでの長い軌跡を感じる。第1回の芸術祭から見られる、妻有の物理的なスケール感、厳しい気候、さまざまな不便さ、決して美しいだけではない風景などと格闘している作品群はやはり見応えがあった。
 遠くの山々まで見通せる河岸段丘に配置しつつ水を張った田んぼに吹く風が肌にあたる心地よさも同時に感じられる「涙雲」(クイビーン・オフラハラ)、畦道から少しずつ全体像をうかがいながら近づいて行く期待感と広大な棚田と対峙するスケール感が爽快な「風のスクリーン」(杉浦康益)、前回からさらにパワーアップして松代城山にそびえたつ「棚守る竜神の御座」(國安孝昌)、人工太陽と森という大仕掛けながら手のひらや樹々の葉が落とす影をすくうというストーリーが美しい「星の木もれ陽プロジェクト」(木村崇人)などなど。
 「脱皮する家」(日大芸術学部彫刻コース有志)もセルフビルド建築に感じるような注ぎ込まれた作業量の迫力と単一の方法で押し通す執念が印象に残った。
 その意味では会期終了後に家ごと壊してしまうという「天竺」(豊福亮)は、いっさい外観に気を遣わず内部に集中していて、さらに迫力がある。

 空家プロジェクトは、そのような迫力勝負ではなく(もちろん解体修理や掃除の大変さは十分に想像できるのだが)、どのような空間が体験できるかによって印象を分けた。そのなかでは「TIRAMI SU3持ち上げて-行ったり来たり」(マーリア・ヴィルッカラ)は、あえて空家をそのままに非常に繊細な手つきだけで見せる作品で、生きている空間の力を感じることができる。
 湧水の絶妙な見せ方で里山というものを抽象化して凝縮したような前回の作品が印象的な本間純さんの新作「しずく」は、一滴の水で妻有全域を表現してしまおうというもので、水滴が落ちてくる高さや映り込む水の深さや水の波紋の広がりといった建築的なスケール感が妻有の広さや奥深さと呼応し、逆に今まさに妻有を旅している自分の存在が小さな水滴にこめられるような、想像力あふれる作品となっている。
 「残華-松之山分校」(阪田清子)は、一見、前述の既視感を感じたのだが、ものの影のなかに差し入れられた写真がひそやかに語りかけてくるようで、非常に巧みで美しい作品だと思い直した。
 「ドリーム・ブランケット・プロジェクト」(アルフレド&イザベル・アキリザン)は、押入れのなかにきっちりと詰め込まれた毛布のなかから(こちらは本当に)声が語りかけてくる作品なのだが、他の作品と同じ家にあってよく聞こえないのが残念。
 「最後の教室」(クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン)は、動線の先を期待させる光のフラッシュや音のリズムなど、空間を歩かせるインスタレーションとしての手法は際立っていると思うが、ストレートに心臓や棺を思わせる内容はあまり好きになれなかった。個人的には前回の作品の方がリリカルでかつ対話的だと思う。

 一軒の家から再び外に出よう。今回の芸術祭では、いままで以上に妻有の隅々の集落まで作品が展開した。そのなかで、前回までに既に作品があった集落で、引き続きより深いコミュニケーションがとれているのだろうと感じた作品がいくつかある。これらの作品は、人の集まりや物理的なスケールも集落単位で引き受けることになるのでコンセプトも制作も大変だと思われるが、妻有ならではのアートのあり方だと思う。
 前回に続き同じ集落に展開した「中里重地パブリック・アクセス・ネックレス」(山田良+山田綾子)は集落のすべての家に作品としてのベンチを設置するという力作。展開したぶん集中した表現はできなくなってしまうリスクを回避せず、どのベンチも荒々しいつくりと赤いペンキで堂々と存在を主張していた。
 住民の要望を聞いてラトビアの家具職人がつくった家具をプレゼントするという「ラトビアから遠い日本へ」(アイガルス・ビクシェ)は、制作された家具は実際に家の中で使われていて見ることはできないのだが、写真からだけでもほほえましい交流がうかがえる。
 「棚田弁当」(大成哲雄)も弁当箱と映像だけのささやかな展示だが、そこから想像できる棚田の風景や食を通したコミュニケーションの豊かさはずっと大きいスケールだ。
 「繭の家」(古巻和芳+夜間工房)は、かつて妻有で行われていた養蚕を集落をあげて復活させたプロジェクトで、様々な手法を駆使したインスタレーションや映像もすばらしいうえ、常に住民の方がいらっしゃるようで話を聞けるのが楽しい。ただやはり、養蚕もこのまま継続というのは難しいかもしれないとのこと。小学生とのワークショップを行ったりしているが、時の流れで無くなるものを復活させるのは並大抵のことではないはずで、続けられるにしろ再び失われるにしろ、考える機会と場を提供することになればアートとして意味のあることだと思う。

その意味で、ノスタルジックな過去ではなく未来に目を向けた作品もある。第4回の開催とかではなく、むしろ芸術祭から自立して展開していきそうな作品。
 「ツール・ド・妻有」(伊藤嘉朗)は、風景や作品を見ながら妻有を自転車で回るというツアー(=ツール)自体が作品になっているもので、コンセプト的にはもはや自立しているというか大袈裟に言えば芸術祭ありきの芸術ではないという地点に立っていると言ってもいいかもしれない。風景という遺産や舗装道路という財産に加えて、蓄積した芸術祭の作品群という新たな資産を加えながら、毎年でも継続していきそうな予感を感じさせる。
 最初から自立しているという意味では「BankART妻有」(みかんぐみ+BankART1929)がある。芸術祭を側面支援しつつ、今後3年間で100人のアーティストの滞在制作の拠点になるという家を鋭意改装中で、こちらは毎年どころか日常的に関わっていこうというパワーがすごい。テーマとなっている風呂は日常というものの象徴かもしれない。